ちょっと古い本であるが竹中平蔵と佐藤雅彦の「経済ってそういうことだったのか会議」(2000年発行・日本経済新聞社)を近所のブックオフで見つけて読んでいる。
一番、面白かったのはエコノミクス(経済学)の語源はギリシア語のオイコノミクスであり、「共同体のあり方」という意味であると言う話。株屋と金貸屋の経済学が幅を利かす日本において、この経済学の原点の指摘はかなり刺激的である。
次に興味を引いたのは米国のグローバリズムのルーツは1920年代に発しているという指摘。米国は全く何もなかった土地に世界中の人達(各国で法も習慣も異なる)が集まって出来た国だから、まず、最初に共通のルールを作らなければならなかった。弱肉強食の西部開拓時代は簡単なルールで良かったが、市場が最初の飽和状態に達した1920年代には都市が荒廃、貧富の差も拡大し社会が維持できないという事で労働者の最低賃金の保証とか、独占禁止法等が制定された。これは競争の制限ではなく公正に競争が行われるためのルール作りであった。この時に定めたルールがその後の米国経済発展の原動力となったという指摘である。
さて、もう少し読んでいくとさらに面白い指摘がある。「米国には業界団体が殆どない。マーケットがあって、企業があるだけ」という指摘である。これは明らかに間違っており、自動車アフターマーケットを見ても米国には多くの業界団体が存在し業界の健全な発展をサポートしている。米国の整備士の資格制度は業界団体で運営しているし、補修部品カタログを効率的に作るための業界統一コードも業界団体が中心になり決めている。市場規模調査や統計も業界団体の仕事である。おそらく竹中氏が「米国に業界団体が無い」としたのは業界団体が価格維持行為など民民規制の元凶だと思っているからだと思う。しかし、ここで忘れられている事がある。米国では業界団体等が価格維持行為をする必要が全く無いほど公正取引ルールが明確に決まっており、業界秩序が守られているという点だ。
◎クレイトン法(1914年)
同種同等の製品の対価を買受人によって差別することを違法とするもの。
◎ロビンソン・パットマン法(1936年)
メーカーの提供する価格が大手流通業者に有利とならず独立小売業者が対等な立場で競争しうるよう、メーカー及び卸売業者に以下のケースに該当する場合の価格差別を禁止している。
@同等級、同品質の商品を販売する場合(科学的分析の結果、同等級、同品質であれば同じものであり商品名やパッケージを変えても駄目)。
A実質的に競争を緩和し、もしくは独占を形成する可能性がある場合(特定の購買者に対し低価格販売を行なうことにより、その購買者と競争関係にある業者が競争上不利になり、競争が阻害される場合、仮に低価格が合法的手段に拠り得られる場合でも違法となる)。
B梱包・納入方法あるいは数量の違いにより発生する商品の製造、販売及び配送に伴う「コストの差異」が値引き幅として提供されるのでない場合(価格の差異は純然たるコストの差異によらなければならない)。
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公正な競争原理が働かないと、零細事業者はいくら努力をしても社業を発展できない。こうした魅力の無い市場に優秀な人材は入ってこない。一方、有利な条件を獲得した業者は競争者が減少して、それ以上の努力をしなくなる。そして業界を閉塞感が支配し、ある日、消費者に見捨てられる。
米国の商取引に対する法規制は世界恐慌の時代と前後して制定されている。市場が飽和すると新たな発展のためにルールが必要になるということだ。
日本経済も、ようやくそういう時期になったと思うのだが。
(編集長・白柳孝夫)